11月14日夜から15日にかけて大嘗祭が行われた。この宗教儀式に使われた公費は27億円だという。近代国家のすることではない。皇族という人たちがいるために、この国はいまだに共和国になれずにいる。
大嘗祭では、儀式に使う米を収穫する2つの地方が決められる。今回は栃木県と京都府が選ばれた。これを決めるのは「亀卜(きぼく)」と呼ばれる占いによってだ。亀の甲羅をあぶってひびの入り具合で物事を定めるらしい。1990年の大嘗祭のとき、私はこのことを知って大いに憤った。その頃、カメジローと名付けた亀をかわいがっていたのである。
それはともかく、われわれは占いに公費を使うような迷妄をかかえた国に住んでいるのだということは自覚しておいたほうがいい。安倍による軍国主義化を許すと、亀の甲羅で戦局を占うようなことになりかねない。
大嘗祭に先立つ10月22日の「即位礼正殿の儀」では、高御座(たかみくら)にのぼった天皇が参列者を見下ろして即位を宣言した。安倍は見上げて「テンノーヘイカバンザイ」を発声した。この場合、首相はわれわれ「臣民」の代表ということであろうから、あからさまな服属儀礼であって日本国憲法の国民主権原理に反する。
ところが、その天皇の地位を規定しているのも他でもない日本国憲法なのであって、この憲法はとんでもない矛盾を内包している。私は戦後民主主義教育を受けてきた者として憲法前文の「人類普遍の原理」を真に受けたいと思っているので、前文に続く「第一章 天皇」は受け入れがたい。
右派からの改憲に歯止めをかけることが喫緊の課題となっているときに、ややこしい話を始めやがって、と思われるかもしれない。しかし、そのような政治主義的判断でスルーすることのできない「原理」的な問題だと私は思う。大嘗祭のテレビ画像を見ながら、あらためてそう思った。